インタビューへのマジレス

2011/08/25 01:31

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宝石業界からの転身について語るには、まず学生時代の話から始める必要がある。

アトピー性皮膚炎との付き合い

子供の頃、父親が法曹界の人間だったので自分もなんとなくそっち方面に行くのかなぁと何となく考え、小学校の卒業文集みたいなのにある将来の自分とかにはそんな風に書いていたと思う。小さい頃からアトピー性皮膚炎だったんだけど、小中学生の頃はある程度収まっていて、こんな感じに軟式テニス部に入ったりして、でも、特に将来については何も考えていなくてただ暮らしていた。

高校生になって、やっぱりブラブラしてたんだけど、なんだかアトピー性皮膚炎が超悪化してしまった。顔を含め、全身が瘡蓋だらけになった。経験のある人はわかると思うんだけど瘡蓋をはがし続けてるとだんだん血じゃないものが出てくるんだ。正直、外に出るのが嫌なくらいだった。だけどなぜか、えっちら出かけて渋谷のシネマライズで1本の映画を見た。

その映画はフランスのバイセクシャルのミュージシャンが主演・監督をした自伝的映画だった。当時、エイズが一般で話題に大きくのぼるようになっていたんだけど、その主演・監督はエイズにかかっていて映画が完成した後に亡くなった。にもかかわらず、映画はとにかくその瞬間自分が生きていることを喜ぶ映画で、顔中瘡蓋なくらいで惨めな気分になっていた自分に力をくれた。

劇研に入る

1年浪人をして、ろくに勉強もせずに映画ばかり見ていた自分は阿呆な大学に受かった。それまで特にやりたいこともなく、なにかが勝手におきると思って生きてきたけど特に何もおきなかった。そんな人生にさようならを告げ、映画研究会に入ろうと思っていた。 少し話を聞いてみると映画を撮ることもなく、主に部室でのんびりしているところだということがわかった。

そのころには、自分も死ぬまでに一人で良いから何か良い影響を与えたい、とか思っていてとにかく何かしたいと思っていた。なんだか丸井のマークみたいな名前の演劇研究会があって、少し上の先輩にJCに大人気の○ャ○○○ボックスという劇団で舞台に立っている人がいるということがわかった。あの人もその後新聞記者になったらしいから不思議な転身だ。結局、大抵の体育会系の人よりも多く大学に通い、みんなの授業を邪魔しつつ発声練習とかしていた。自慰のような芝居もおっさんたちに受けがよく、学際では大賞をとったりしていた。

※普通の大学生活を送るべく、最初はテニスサークルとかにも入ろうと思ったが、出遅れたために新歓からあぶれてコンチクショーとなって諦めた

調子に乗るも…

10倍の書類選考は当然通るという自信があって、事実通って、藤○君を輩出したオーディションを受けに行ったりもした。よく考えると近場の若者はみんな通したんじゃないかってくらいで、同じ阿呆大学の知り合いが2人もきてたりした。でも、そんなことにはめげずにへんてこりんな自称事務所みたいなところに所属したりして、固い体で殺陣の練習に参加したりした。

丁度周りが就職活動を開始した頃、湾岸方面の架空警察署が登場するドラマでおなじみの苦虫をかみつぶしたような顔の役者さんで有名な事務所のFarmに合格した。社長も珍しい爬虫類系の動きをするヤツがきたと喜んでくれた。鳥系はもういるからな、とよくわからない喜び方だった。

親の手前、なんとなく就職活動をしてる感じにするために、インターネットで応募できるところを探していた。90年代後半は、まだインターネットで申し込めるところはそんなに多くなくて、どこに申し込んでみようかとだらだら見ていた。変な名前の宝石屋があった。

写真を撮るのも好きだったりしたので、プロラボなんかにも興味があったんだけど、説明会に参加する手続きが面倒くさくてやめた。宝石屋に就職決まった!って言ったらみんなウケるんじゃないかとか思った。扱うものが扱うものなので延々面接が繰り返され、10回近くアメ横のそばの本社に通った頃、内定が出た。友達に宝石屋に就職決まった!と言ってもウケなかった。

Farmは、定期的に小芝居をやっていて、新入りの自分は稽古を見ているしかなかった。小芝居は既存の脚本があるわけではなく、エチュードを繰り返してみなで作っていくものだった。大抵、小さなところの芝居を見に行っても見え透いていて笑えることなんかほとんどなかったんだけど、小芝居は稽古で内容を知っているにもかかわらず本番でも笑った。エチュード中、これは復旧不能だろう…と思うものも佐○さんは容易に復旧して笑いをとった。完全に器の違いだと思い込んだ。旅に出たくなった。

Farmは、学生の授業以外は稽古優先という場所だった。絶望した自分は旅に出るためにさっさとFarmをやめた。きちんと履歴書が送り返されてきた。シベリア鉄道にのったりしてブラブラしたのち、気づいたら宝石屋に入社していた。

勉強しない社会人

社員の95%が女性で、宝塚出身者が何人かいたりする職場。全然宝石とかわからないまま働いていた。働いていたってのは言い過ぎで、現場にいた。卒業した阿呆大学では経営学科を専攻していたようなので、店舗運営課というのに興味がないこともなかったけど、宝石自体にそんなに興味は持てないままだった。仕事以外の時間に仕事のことを考えるなんて馬鹿だとうそぶいて、店が終わった後飲み歩いたりしていた。友達が住んでいた府中のアパートで夜中に銅鑼をかき鳴らして歌ったりもした。このときは隣人の母親がネグリジェ姿で怒りにきたので黙った。

このころも何か良いことが突然降ってくると思ってたんだけど、これは大問題だった。何もおきない。いや、ピアスをあけるんだとか宣言して本社から役員が飛んできたりはした。

自分はいずれ本社に戻るんだという意識もあってとにかく駄目な社会人だった。休みの日には1流の店に行って接客を受けて勉強するようにとか、いろいろなサジェストをもらったりしてたけど全然言うことを聞かなかった。どんどん店にいるのがつらくなっていた。好感の持てるカップルがエンゲージとマリッジを買ってくれたりもして、それはそれで必要だと思われるものを他所よりはずっと良心的な価格で優れたものを売っているという気持ちはあった。でも、事前に女性のお客様と打ち合わせて、後日男性と一緒に始めて来たかのようにしつつもきちんと欲しいものをすすめたり、いろんな男性と来る女性に同じものを売ったりといったことも最初は面白い経験だと思えたけど、宝石自体に興味がないのでどんどん辛くなってきた。

25才が迫っていた。転職の情報誌なんかを見ると、異業種に転職するのは25が最後だなんて書かれていた。チャンスは今しかないと思った。何か良いことが突然降ってくることなんてないことに気づき、この先ずっと働いていかなければいけないことにも気づいた。社会人が勉強をしなくていいなんてのも幻想で、できる営業はお客様との会話が何単語だと成約率が高いというようなことまで研究し尽くしているものだということも知った。

この先ずっとやっていっても辛さが一番少ないものを考えた。再びショウビズの世界を…と思いクレーン専門会社を訪ねてみた。25才は年寄りすぎて難しいといわれた。インターネットで就職活動をしようと90年代後半に考えていたくらいなので、パソコンは触っていた。ITブームが来ているらしいので、信号機のタイミング調整をしている会社と生保系のシステムをやっている会社を受けた。

そう、宝石業界からは逃げ出したんだ。

勉強の始まり

生保系のシステムをやっている会社は中途入社の数人に、3ヶ月間みっちり研修を受けさせてくれた。世の中でJavaが大げさに流行りだした頃で、入社試験も研修も優秀だったらしい自分ともう一人を役員の知り合いがやっている会社に研修に出してくれた。フローチャートを延々書く、COBOLを書く、VBAを書くといった自分の会社の研修より、パソコンでJavaを書く研修の方がずっと楽しかった。インターネットにつながっていた。インターンの人たちに混ざっていつの間にか半講師になっていた。そのころrhacoの人はインターンから別の部署に吸い上げられてマンモス本を渡されていた。

とにかく自分は文系の阿呆大学出で、中途でITの世界に入り、他の人たちには負けてられないと思った。業務終了後、家に何台もマシンを置いてOSのインストールやLANの構築をしたり、プログラムを書いたり、毎日外が明るくなるまで続けた。いつの間にかrhacoの人と同じ部署にいて、ドットコムのサービスに加わっていた。いくつかうまい話が降ってきて、キャッチはできなかったけど、良いことがあるかもしれないと思った。当然、勉強は続けた。ドットコムバブルは既に崩壊していて、いくつか会社を移りつつ、うまい話に乗り続けている。今、キャッチできるんじゃないかと思って頑張っている。

未来に向けて

米国でもソフトウェア産業は中国やインドにすべて持っていかれてしまうと言われていたし、日本でも同様の話題はずっと続いている。実際の米国はソフトウェア産業の人が足りていないらしい。

実は日本でも人がなかなかとれないのをまさに今実感しています。

つまり、人が足りないので、よく勉強するひとを探してます!

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